「言葉」は便利でもあり、不便でもある。

人類最大の発明の1つといえば、「言葉」だと思います。


人類進化においても「言葉」の獲得によって、仲間とのコミュニケーションや知識の伝達などを容易にしたことで進化を促進させたとも言われています。

「言葉」があるからこそ、このように物事を考えたり、発表したり、まとめたり、といった様々なことが可能になったと言えるでしょう。


改めて考えると、何をするにしても「言葉」を介して伝えているわけですから、つくづくすごい発明だなと思います。

スマートフォンの普及などで、多くの人がSNSを使って不特定多数に向けて自分の「言葉」を発信できるようになったため、「言葉」の持つ力はより一層強まり、その扱いの重要性も増したのではないかと感じています。(このホームページも同様で、今までは新聞などの力のある機関が言論で影響力を持っていたが、今はそれが個人でも可能ということ)


しかし、ジェンダーをはじめとして様々な問題を考える時に、その原因の1つに「言葉」の存在があるのではないか、とも思うことがあります。


まず、「言葉」の性質を見直してみると、

そもそも「言葉」は他人とのコミュニケーションを取るためだけでなく、人間が世界を理解するために生み出されたものでもあります。つまり、

世界に存在するあらゆるモノに名前を付けて、他のモノと切り離して見ることでそのモノを認識するのです。


例えば、丸くて赤い果実に「りんご」と名前を付けると、同じ特徴を持つモノが皆「りんご」と呼ばれるようにうなるだけでなく、同時に「りんごではないもの」という存在を生み出してしまうということにもなります。

つまり、「りんご」という1語に関して見ると、

あるモノが「りんご」か「りんごではないもの」かという2択しかなくなってしまいます。

そうすると、どこからが「りんご」であるかの線引きが発生するので、その線からはみ出るか否かが問題になってきます。


これはジェンダーについて考える時も全く同じで、

ある人が「男性」なのか「女性(男性ではない)」なのかについて、必ず2択しか選べないという状況に陥ってしまいます。

また、必然的に分類を伴ってしまう「言葉」の性質は、人々のモノの見方にまで影響を与えてしまうと思います。


ジェンダーや性についての問題(特にその言説)を読んでいると、結局「言葉」の持つ性質や、「言葉」の存在が元になった社会の仕組みなどに焦点を当てていることが多く、もしも「言葉」が存在しなかったらこういう問題やモノの見方自体生まれていなかったのかなぁ…と考えてしまいます。


人間として生まれた以上、「言葉」を使って生きていく必要があるので、

僕個人としては、なるべく短絡的な「分類」や、伝えたいことと伝わることのギャップが少なくなるよう上手に「言葉」を操れるようになれるといいな、と思ってます。

参考 

L'atelier de 423

イラストや文芸作品、ジェンダー中心のアカデミックなコンテンツ

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