名前はその人の”住所“?


僕らは当たり前のように「名前」を使っている。「名前」は人を区別する自分の「住所」なのだと思う。


学校、職場、SNS、書類など、ありとあらゆるもので「名前」が求められ、「名前」が分かればその人に辿り着くことができる。言わば「名前」がアイデンティティになっている感がある。自己紹介で真っ先に伝えられる情報は「名前」だし、SNSでアカウントを作るときも「名前」を付けることが求められる。


僕らは「名前」という「家」の中に生きているのだと思う。


しかし、名前には多くの種類があって、漢字やひらがなによる本名、あだ名、ローマ字表記、ハンドルネーム、ペンネームや芸名など。つまりいくつもの「住所」、「別荘」を持っている。


僕らはいくつもの「別荘」を所有し、その「別荘」をせわしなく行ったり来たりしながら過ごしている。あるところでは本名で呼び合い、あるところではあだ名で呼び合う。そのあだ名も呼んでくる人によって変わったりする。


一体、どこが自分の1番居心地の良い「家」なのだろう。全く同じ「住所」の人がいたとき、どうやって自分と区別するのだろう。

特に本名は、生まれた時から親などによって決められてしまっているものであり、他の名前ほど自由が効かない。まるで一戸建てを買い与えられ、そこに住むように言われているかのように、初めからその「住所」を用いざるをえない。


それに比べて、ハンドルネーム(SNSなどで用いる名前)なんかは1番融通の効く「住所」である。気に入らなければすぐに「引っ越し」ができるし、そもそも持たないという選択肢もある。


つまり、「名前」の中にも自分を縛り付けるような名前から、あってもなくても良いようなふわふわした存在としての名前まで幅が広いのだと思う。どの名前もその人を指し示すという「住所」としての役割が共通しているが。


また、これは「名前」だけでなく「性別」にも当てはまると思う。


特に本名とセックス(生物学的性別)は生まれながらにして他人に決定され、それに従って生きざるを得ない。その「住所」を離れることはかなり難しい。かといって「性別」には様々なイメージがまとわりつくので、「名前」ほど簡単に多くの「別荘」を持つことも難しいだろう。


自分の「住所」、つまり居場所としての「家」について他人にとやかく言われたり、ずかずかと土足で上がられたりしたら誰でも嫌だろう。「名前」にしろ「性別」にしろ、「住所」を廃して「公共領域」にし、大体この辺りは自分の領域だが被ったエリアは共有しよう、というような境界線の緩やかな世界になって欲しいなと思う。

L'atelier de 423

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