正解を求めることの難しさ


大学生になって2年。

「正解なんてないじゃん!!」と痛感しています。


高校までの勉強では、散々「正解」を求められてきましたよね。

国語とかまさにそう。よく友達も冗談っぽく言ってました。「小説の心情に答えなんてあるわけない、出題者と解釈が違う」と。
どんな問題にも必ず答えがあって、問題はそれにたどり着けるかどうか、ということ。
覚えているかいないか、読み取れるか取れないか。

また、自由に記述する小論文などの問題も、ある程度「型」や「主張するべきこと」が決まっており、あとはそれに即して書けるかどうかだけ。

ほとんどの小中高ではこうした勉強が主流になっていると思います。

勉強が「学び」という能動的な活動ではなく、「義務」や「作業」といった印象のものとして受け取られてしまっています。


これは、塾でアルバイトしている際にも痛感します。
本当は知識を使って自由に考えて欲しいですが、テストで点を取るため、受験を通過するためにはどうしても単純作業的なものをさせなければいけません。
「勉強自体は嫌いじゃないけど、テストや課題は単純でつまらない」という子も多いです。

大学以降の勉強では、「問題」について教えてくれても、
「正解」については何も教えてくれません。
そもそも「正解」がないので、それを考える必要があります。
どうしても答えを求めようとする癖が抜けず、考えてしまうのですがたどり着けません。

このホームページでよく扱っている「ジェンダー」などの性に関する問題も、
性別や苦痛などは千差万別なので、Aを解決しようとしてもBを解決できない。
Bを解決しようとしたら、Cが不利益を被る。というように明確な「正解」を導くことは難しいです。

どうしても、法律などの社会的な側面から問題を解決しようとすると、「線引き」を行わなくてはならないので、「どのような人々も快適に過ごすことのできる社会」というのは難しいと思います。

「線引き」を行うと、その「線」からはみ出た人からの批判や反発は必至でしょう。

しかし、だからといって「皆が納得する正解」を求めることを諦めてはいけないと思います。
理想論的であり、変化に時間のかかるものでもありますが、

そこまでしていかないと社会は改善されていかないと思っているからです。



L'atelier de 423

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