言葉は暴力にもなり得る。


僕は大学で「言葉」について学んでいる。漠然と過ごしているだけでは決して気がつかないような、「言葉の力」について気づかされるとともに、時々恐ろしさも覚える。

「言葉」は元来、世界を理解するためにあらゆるモノに名前をつけるところから始まっていると思う。そうしてつけられた名前を使って、他人と意思疎通を行う思考とコミュニケーションの道具なのではないか。

つまり、目の前にあるモノについて語ることが主な役割だったのだと思う。 

しかし、「言葉」はあまりにも便利過ぎる。
感情や虚構など、「目に見えないモノ」についても語ることができるからだ。
これこそ「言葉」の持つ恐ろしい側面であると、僕は思う。

例えば、宗教的な語り、悪質な営業トーク、悪質な企業経営理念、プロパガンダなど。

実体のないモノを、「言葉」によってのみ造り上げ、あたかも存在するかのように語る。
具体的なことは何も言わず、その人物のマインドを不安に駆り立てたり、昂らせたりすることで、実体がないことを隠しているのではないか、と感じる。

そうなると、「言葉」によって「幻」が作られ、(そこに後付けのハリボテのような実体が作られる場合もあると思うが)人々はその「言葉」だけを信じて進むしかなくなる。

個人的には、「言葉」というものは1つの判断材料でしかないと思っている。
どんなことを考えるにも「言葉」を使わざるを得ないが、「言葉」を絶対視してはいけないということだ。

もし、言葉巧みにおいしい話を持ちかけられても、それが「実体を伴う言葉」なのか、ただの「幻」に過ぎないのか見極める力を、文学などの学びを通して身につけていきたい。
「疑う」ということが「相手を信頼していない」ということに直結するのではなく、
「相手をしっかりと信頼するため」に「疑う」のではないかと思う。
他人の言葉を鵜呑みにし過ぎず、ちゃんとその言葉を「疑う」ことで精査して、お互いにとって気持ち良く信頼し合うことこそ望ましいのではないか。

その際に、相手に「疑う」ことすらさせようとしない「言葉の暴力」を振りかざすことだけは避けたいと思う。

L'atelier de 423

イラストや文芸作品、ジェンダー中心のアカデミックなコンテンツ

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