アイデンティティの拠り所が分からない。

大学生活も3年目になった。この時期はスーツを着た4年生をよく見かけるし、「就活っていつからやる?」とか「インターン行く?」といった話をよく友人とする。

これまでも高校受験、文理選択、大学受験などの場面で、進路や、とりわけ「自分」について考える(考えさせられる)機会がたびたびあった。自分は再びそうした局面を迎えつつあるんだなあ、と感じている。「自分がどんな人間で、どんなことをしてきて、どんなことをしたいのか。」

幼い頃からことあるごとに自己紹介や将来の夢なんかを尋ねられる機会が巡ってきたと思う。幼い頃はまだ「自分」というものが確立していなかったし、考えたこともなかったので上手く言えなかった。その分無限の可能性があったとも思う。

しかし、成長するにつれて「自分」のかたちはハッキリしてきているはずなのに、それでも上手く自己紹介ができない。かたちをハッキリさせるために他の部分を“削ぎ落としている”感覚になったからだ。彫刻のように完成形に向けて不要なものは削っていく。ぼんやりとした曖昧なかたちに価値はなく、もっと言えばみんなほぼ同じかたちになるように削がれていくような気さえする。結局”自分らしさ“を象徴するかたちがどこに残っているのか気づかないし、気づいても自信を持てなかったりする。

何をしたいかも、与えられた選択肢の中からある程度現実的で無難なものを選んでいくし、自己紹介だって名前と出身地とその場に必要な情報など、最低限で済まされる。大学で自己紹介が行われるたびに、自分も含め多くの学生が「自分」をどう紹介して良いのかに詰まっていた。

就活生の姿を見るとなおさらそう思う。彼らも好きでそうしてはいないだろうけれど、みんな同じスーツに身を包み、同じような髪型にし、同じような話し方を求められる。それぞれが過ごしてきた人生は全く違うのに、あたかもそれを隠すかのように。企業の採用係はどういった基準で選ぶのだろう。隠しきれていない圧倒的な個性を放つ人を採っていくのだろうか。では、そんな圧倒的個性のない人は?

色に例えると、大半の人の違いはその人と深く付き合わない限りほとんど分からないと思う。同じ赤色でも「少し濃い赤色」と「少し薄い赤色」くらいなら判別できるだろうけど。それにみんな同じ色になろうとしていく動きもあるような気がする(社会によってそうさせられているとも言える)。みんなと同じ色になれば“紛れる”ことができるからだ。そうすれば悪目立ちすることなく過ごせる。だから、違う色と見なされる人は蔑まされたりしてしまうのではないか。「出る杭は打たれる」という感じに。

その一方、TwitterなどのSNSでは複数のアカウントを持つ人も多い。自分の趣味のアカウント。大学用のアカウント。親友たちだけに公開している秘密のアカウントなど。それに家での自分。学校や職場での自分。小学生の弟は「学校ではこういう“キャラ”だから!」と言っていた。

僕たちは一体いくつの「自分」を持てば良いのだろう。何を「自分」だと言えば良いのだろう。そもそも「自分」は1つに絞らず、複数存在していても良いのかもしれない。心理学者のエリクソンは青年期に「アイデンティティが拡散する」と言っているが、もしかしたら大半の人は死ぬまでアイデンティティが拡散し続けているのかもしれない。結局アイデンティティを求める/決めることは、社会が用意した型から自分に合ったものを選んで、その型に向かって「自分」を“削ぎ落としていく”ことなのでは、と思う。その“削ぎ落とし“の反動としていくつかの「自分」を持っているとも言える。

こういうことを突き詰めて考えるのは、個人的には面白いなと思ってます。

L'atelier de 423

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